ESSAY
大阪府茨木市を拠点に関西全域および全国各地で活動する一級建築士事務所です。
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「緑のモジャモジャ」でも「半沢直樹」でもない家づくり

まったく余計なお世話なのだが、インスタグラムを眺めていると、スレッズで話題の投稿が「おすすめ」として表示される。その中でよく目にするのが、現場や図面の写真に「こんなひどいことになっています。これで正しいのでしょうか?」と添えられた投稿だ。コメント欄には「それはひどいですね!」「左側の亀裂のほうがもっと心配です」といった、不安をあおるような言葉が並んでいる。 多くの人にとって家づくりは一生に一度の経験である。何も分からないまま、ショッピングモールの緑色のカウンターで相談し、そのまま勧められるままにハウスメーカーと契約する。現代の日本では、それがむしろスタンダードなのだろう。建築家に依頼するのは敷居が高く、そもそも誰に頼めばいいのか分からない。これは建築家の発信力の弱さ、怠慢でもあり、大いに反省すべきところだと思う。もちろん、ハウスメーカーで親切な担当者に出会い、満足のいく家を建てられる方も多いだろう。けれど、スレッズに悩みを投稿する人たちは、そうではなかったのだ。 ハウスメーカーとの家づくりの難しさは、クライアントがプロと直接やり取りしなければならないことだ。気軽に頼れる味方がいないまま、孤独な施主はスレッズにいる「どこかの誰か」に悩みを打ち明ける。本当に気の毒な状況である。そして、顔も知らない誰かからアドバイスを受けるのだが、それが信頼できる内容なのかは分からない。結局、堂々巡りになってしまう。 建築設計事務所と家づくりをする場合、施主は設計者と「設計監理契約」を、施工者とは「工事請負契約」を結ぶ。設計と施工は利害関係を持たないため、設計者は純粋に施主の味方・アドバイザーとして、図面や現場のチェックを行う。少し例えるなら、裁判における弁護士のような役割だ。施主の要望や不安に寄り添い、施工者との間に入って調整することができるから、匿名の誰かに頼る必要はない。 インスタを開くたびにこうした悩み相談を見ると、孤独に家づくりをしている人が多いことを実感し、胸が痛む。だからこそ、これから家づくりを考えている人には「緑のモジャモジャ」や「巨大な半沢直樹」ではない、別の選択肢があることを知ってほしい。そのためにも、私はこれからもコツコツとブログを更新してまいります。

講評会の季節

暑さのピークを迎える頃、大学では講評会の季節がやってくる。 今年は、武庫川女子大学と大阪産業大学にゲストクリティークとして参加した。前者では二つの住宅課題を、後者ではオフィスビル課題について、学生のプレゼンテーションを聞き、質問やコメントを返す。うまく切り返せる学生もいれば、フリーズしてしまう学生も。そんな時には助け舟を出す。私が学生の頃、講評会は吊し上げのような時間だったが、今どきのあり方はとてもいい雰囲気になっているなと思う。 大学ごとに特色があり、課題の設定や学生のアウトプットも異なる。複数の大学に立ち会えると、その違いがより際立って見えてきて、とても面白い。 では、自分がどんなことに着目してコメントしていたかというと、案外、どこでも似たようなことを伝えていた気がする。発表時間が1〜3分と短いこともあるかもしれないが、間取りの細かい話にはあまり触れず、敷地やその周辺環境に対して建築がどのような構えをとっているのか、という点を中心に講評していたことに気づいた。 もっと敷地をダイナミックに使ってもよいのではないかとか、住人や利用者を迎える街との境界は、もう少しおおらかに開いてもいいのでは、といった具合である。 建築の持つ力のひとつに、人と環境の関係を規定するということがある。建築は環境を取捨選択し、人に空間を提供する。その価値観の多くは設計者に委ねられている。もちろん施主の存在は大きく、設計者はその人の代理であると同時に、依代のようなものだとも言えるかも知れない。村野藤吾が「99%を聞き、1%に託す」と語っている。施主と徹底的に話し合って設計しても、最後の1%には建築家としての判断が残る。その1%にこそ意味がある、と私は思う。 学生の提案は図面と模型、そしてCGによって表現されている。細かな間取りの良し悪しは、これからいくらでも調整できるだろう。でも、人や地域や環境に対する構え──つまり、大きなデザインの方向性は、小手先では変えられない。だから、自然とそこにコメントが集中したのだろう。 学生に語っているようで、半分は自分への戒めのような時間。偉そうなことを言って本当に実践できているのか、と。明日から襟を正し、猫背を伸ばして姿勢良く、パソコンに向かうことにいたします。

引き出し

「いい空間をつくるにはどうしたらいいんですか」非常勤講師を務める大学の学生にこう聞かれた。「空間の体験を重ねて、それをいつでも使えるように引き出しにしまっておくことだよ」わたしは(ドヤ顔で)答えた。 この答え、実は受け売りである。ちょうど通勤電車に揺られながら読んでいた本にホラー小説の巨匠 スティーブン・キングのエピソードがあったのだ。ある日、スティーブン少年は叔父のオーレンと共に家の裏にある網戸を修理に向かった。オーレンは大きな道具箱を片手に家の裏手へ回る。作業は簡単に終わり、使った道具といえばドライバー一本であった。スティーブン少年はオーレンに尋ねる。ドライバーだけで済むなら、なぜこんなに大きくて重たい道具箱を持ってきたのか、と。 「ああ。でもなスティーヴィ」叔父は屈み込んで道具箱の取っ手を掴みながら言った。「何があるか、ここへ来てみなきゃあわからないからな。だから、道具はいつも、全部持っていた方がいい。そうしないと、思ってもいなかったことに出っくわして弱ったりするんだ」 存分に力を発揮して文章を書くためには、自分で道具箱を拵えて、それを持ち運ぶ筋肉を鍛えることである。(スティーブン・キング『小説作法』) このエピソードを読んだとき、「文章」を「建築」に置き換えても同じことが言えると思った。世の中に完全なオリジナリティはなく、新しく見えるものも実は既存の形や概念を組み合わせたり、ずらしたり、つまり編集することによって生み出されているとわたしは考えている。自分の引き出しの中身が少なければ、その組み合わせは貧弱なものになる。一方、引き出しにたくさんの道具があれば、言うまでもなく豊かなアイデアにつながる。 小説家にとっての道具が「言葉」だとすれば、建築家にとっては、「空間の体験」がそれにあたる。何も歴史的建造物や有名建築ばかりだけではない。日々の中で出会う、なんだか落ち着くベンチの配置やつい座りたくなる段差、早く立ち去りたいと思わせるお店の雰囲気など。こうした何気ない経験を引き出しにそっとしまっておく。わたしの場合、祖父母の家にあった広縁に置かれた一対のソファや心地よい風が通り抜ける実家の団地の階段が、幼い頃の思い出と共に心地よかった空間としてストックされている。 もし読者の中に建築を建てようと考えている方がいれば、建築家に「自分にとって心地よい空間」について語ってほしい。きっとそこから着想を得て、あなただけの特別な空間を構想してくれることだろう。

ダジャレ

5歳の娘が図書館から『いちにちだじゃれ』(ふくべあきひろ 作、かわしまななえ 絵、PHP研究所、2021年)という絵本を借りてきた。子育て世代なら一度は手に取ったことがあるかもしれない、あの絵本である。「ダジャレに興味を持つ歳になったか〜」と感慨深い。 車でお出かけの際には、退屈しのぎにダジャレを考えるゲームをする。車窓から見えるものの名前でダジャレを言い合うのだ。……と言っても、娘はまだダジャレ初心者。うまくダジャレに誘導する必要がある。こちらが先にダジャレを言ってしまうと怒り出すので、決して“答え”を言ってはならない。例えば「道路」をお題にする場合は、「道路、どうろ、どーろ、どろどろ…、うーん、うーん」と悩む様子を見せつつ、イントネーションを“道路”から“泥々”へと変えていく。すると、「どろどろのどうろ〜!」と娘が高らかにダジャレを宣うのである。 「蛍の光」(作詞 稲垣千頴、原曲 スコットランド民謡)の一節に「何時しか時も すぎの戸を 開けてぞ今朝は 別れ行く」とある。「過ぎ」ゆく時と木材の「杉」を掛けているのだが、昔は「なんだいダジャレかい」と思っていた。ところが近頃は、意味と音のズレを重ねる構成に、大きな意味を感じる。思えば、詩ってそういうことだよね、と。 ラジオ番組「アフター6ジャンクション」の映画批評の中で、宇多丸氏がある映画について「編集で韻を踏む」という発想を語っていたのも興味深かった。これって、建築空間でも応用できるのでは?たとえば、構造体のリズムを上下階で繰り返しながら、柱や壁の色を微妙に変化させていくような設計。整然とした繰り返しの中に意図的な「ズレ」を差し込むことで、単なる反復を超えた、詩的な“韻”が生まれる。音楽や言葉に「韻」があるように、建築にもリズムと変化、その「ずれ」が詩的な意味を持つのではないかと感じている。これは実際にプロジェクト内で試みた方法だが、外壁をガルバリウム鋼板の小波板で仕上げた住宅の間仕切り壁と建具に半透明のポリカーボネート小波板を用いたことがある(写真)。ここで住人は波打つ仕上げ材に屋外と屋内で繰り返し出会うのだが、そこで光や触った時の温度など金属板とポリカの間のズレを感じることになる。表面の波打つ形状と同様に面としての形は台形で共通しており、マテリアル=質感のズレを強調する。建物と建築の違いは、そこに「詩」があるかどうかだと考える池田にとって、「韻」は、今とても興味をそそられるテーマである。 そんなことを考えながら、今日も助手席で「くるまがくるまる!」と誇らしげに叫ぶ娘を、「うまい!座布団一枚!」とヨイショするのであった。 (撮影:髙橋菜生)

テトラポッド

とあるプロジェクトで協働しているクリエイターから「消波ブロックを使ってみないか」と提案があった。なるほど、確かに面白い。建築のスケール感ではなかなか扱えないような、荒々しい力強さがある。周辺環境を入れ子状に空間に取り込むコンセプトにもピッタリだ。 という訳で、消波ブロックを使う方向でプロジェクトは進んでいる。 消波ブロックとは海岸に置かれて波を打ち消す、コンクリート製のアレである。テトラポッドと呼んだ方が伝わりやすいかもしれない。ところが、そうはいかない事情があるのだ。 なんと日本において「テトラポッド」は、株式会社不動テトラが製造・販売している四脚ブロック製品の登録商標なのだ。そして、その四脚ブロック製品は民間には販売はしていないという。その理由を直接聞いた訳ではないので確定的なことは言えないのだが、伝え聞いた記憶によると、あくまで護岸のための製品でありそれ以外の用途に使われることはテトラポッドの持つイメージを損なうからとのこと(間違っていたらお知らせくださいませ)。まさか海岸だけでなく自社製品のイメージまでしっかり守っていたとは、いやはや驚きである。 という訳で、消波ブロックはウルトラ怪獣「ブルトン」(デザイン:成田亨)に似たテトラポッドではなく、三角形型のものになりそうです。

短歌のような建築

気の利いたコメントをするのは難しい。ありきたりも、奇を衒うのも、なんだか恥ずかしい。講演後の「会場から質問ありますか」にお客さんが目を逸らすのも同じ心理なのだろう。 建築家であり、教育者でもある方にレクチャーをしてもらうイベントを建築家仲間と一緒に運営している。運営メンバーは講演後に毎回質問やコメントをするのだが、ある建築家の回で私は「短歌のような建築」とコメントをした。これは奇を衒う度が高めな気がして、少し恥ずかしかったのだが、「だってそう思ったんだもん。仕方ないじゃん」の精神を発動。 短歌のような建築とは、どういう事かというと、空間構成(部屋の大きさや並べ方など)が抑制的(はちゃめちゃで自由奔放ではなく、少ない手数で洗練されている)で、そこに周辺環境や建築史を引用、参照した仕上げが慎重に選ばれているデザインに、まるで短歌のような印象を受けたのだ。短歌に置き換えるなら、空間構成は5・7・5・7・7のリズム、仕上げは枕詞や先人の短歌をなぞった言葉選びになる。リノベーションは差し詰め連歌といったところか。 よく練られた言葉(文章)は建築によく似ていると最近よく思う。美術館のように経路を辿って空間や景色が移り変わる様に感動する建築は長編小説のようだし、多様な子どもたちがそれぞれに心地よい時間をそれぞれの場所で過ごす放課後の学校のような場所はまるで詩集のようだ。 よし、図書館に行こう。 写真:髙橋菜生 

ボーっ

散歩中、ベンチに座っているお婆さんを見かけたので、奥さんに「最近ボーっとする時間がないなあ」と言うと、朝5分だけでも頭の中を空っぽにする時間を取るといいよと教わる。 小さな水筒にコーヒーを入れてボーっスポットを探しながら通勤。緑道のベンチは石製でお尻が凍えてしまったので、事務所近くのおにクルに寄り道することにした。4階まで上がり窓際の椅子に腰を掛けてボーっ。グラウンドゴルフに興じる先輩方を見下ろしてボーっ。北摂の山並みを眺めてボーっ。目を瞑ってボーっ。5分過ぎたがボーっ。今日は10時にTOTOの営業さんが来るんだった、と思い出しそろそろボーっタイムは切り上げなければと思いつつボーっ。 しかし、おにクルはいい建築だ。確か一般投票で選ばれる「みんなの建築大賞」にも選ばれたとか。公共建築不毛の茨木市に突如現れた単なる施設以上の価値を持つ建築は市民の生活を豊かにし、建築の力ってすごいのだなと肌で感じさせる存在だ。建築関係者のS N Sでおにクルを紹介する際には特徴的な吹抜けや頂部のトップライトの写真を使っていることが多いが、自宅からも事務所からも徒歩圏内でヘビーユーザーの私に言わせれば、おにクルの良さはそこではないのだ。フラットな床をシンプルに積層させたその構成にこそ意味がある。壁ではなく床が主役となり、訪れる誰にでもいても良いと思わせるのは、壁が空間の脇役に下がり床がテラスまで含めて伸びやかに存在していることにあるのではないだろうか。4階ホールの間仕切りをカーテンにしているのもそういった意識が反映されているように思う。また、北側に望む山並みは、実は茨木市民もほとんどの人が知らなかった美しい稜線で、その存在に気づかせてくれたのもおにクルなのだ。もちろん複合したプログラムの組み合わせの妙も(建築家を相当悩ませたようだが)誰もが立ち寄りやすいものにしていて、発注した茨木市グッジョブ!である、などと考えながらボーっ。 では、そろそろTOTOさんが来る時間なので事務所に向かいます。