いろのいろいろ
先日、建築家仲間4名で主催している建築レクチャーイベントを開催した。ゲストはULTRA STUDIOの笹田さん。このイベントでは珍しい東京拠点の建築家だ。ULTRA STUDIOの建築は、部位を幾何形態に乗せてデフォルメしたような構成と、練られた色使いが特徴である。注目度の高いユニットということもあり、参加者も多く、会場からの質疑応答もいつも以上に熱を帯びた。そこで質問に上がったのはやはり「色」の話。
さて、色である。建築家にとって色を操ることは難しい。
部屋の広さ、天井の高さ、素材の選択、窓の位置……建築のありとあらゆる部分を決定する際、設計者はその一つ一つに合理的な理由を与えていく。それは建築が設計者の創作物でありながら、所有者はクライアントであることが大きな理由だろう。合意を積み重ねるためには、納得のいく理由を添えることが不可欠である。だから設計は合理で進む。だが色はそうはいかない。合理的な説明も可能ではある(汚れを目立たせるために白を選ぶ、など)が、多くの場合、色は趣味の領域に属し、「何となく、いい」で決まる。そこが建築家を悩ませる。
加えて、建築の色は固定されない。昼間と夕焼けでは違って見えるし、絵画のように適切な光を前提にすることもできない。建築は背景であり、じっと凝視されるものではない。そもそも、私の見ている色とあなたの見ている色が同じとは限らない。
そういう訳で、色を決める際には周辺環境の色味をピックアップするという手法もよく用いられる。周囲に合わせることは間違いではないというわけだ。なぜか。これは近代化で失われた「集落のあるべき姿」への慕情ではないか。かつては身近な材料で建てざるを得なかったから、自然と同じような形、同じような色の建物が並んだ。近代化によって材料は遠くから運ばれるようになり、勝手に似てしまうことはなくなった。意識的に合わせに行かない限り。私はこの設計態度を「微分・積分建築」と呼んでいるが、その根には、名もなき古典への眼差しがあるのだと思う。
現在進めている社員寮プロジェクトでも、色は悩ましい問題だ。無難に無彩色でまとめることもできる。だが屋内に露出する2.7メートルピッチの柱梁を黄色に塗ろうと考えている。奥行きの長い空間に並ぶ構造体を強調し、リズムを与え、5.4メートル間隔で繰り返す要素――キッチンやサイドボード――と和音のように響かせたいのだ。
「白って200色あんねん。」
色を扱うことの難しさは、その果てしなさにある。